2009年5月から構想をつくりはじめ、2009年11月4日から始動したプロジェクト「児童館の新住民史」。今回は、じっくりとその見どころをご紹介します。
この活動、アーティスト北澤潤さんとプロジェクトメンバーが、「児童館の新住民」として、児童館に「居る」ということから始まります。居るだけでなにもしないの?そうではありません。彼らは、児童館という場所・文化にほとんどなじみのない人たち。そこでの驚きを「手記」に書きためていくのです。そのカルチャーショックの体験記が<週刊 児童館の新住民史>として、地域に配布されていきます。
見所その1: 日常を「かたどる」。そのアクションは伝播するか!?
これは、単に記録をつける活動ではありません。「子どもが遊んでいる」という一見どこにでもある風景ですが、それをつぶさに見つめてみると、彼らの遊びの技巧や知恵に驚かされるはず。「なんとなく眺める」という行為から一歩踏み込んで、その風景を文字やスケッチによって「切り取る」あるいは「かたどる」。見慣れた風景は、かたどられることによって新たな意味を紡ぎ出します。
これは、アーティストのひとつの仕事です。慣れてしまった「あたりまえの世界」を、見つめ、分解し、再構築することで、僕たちが日常様々な人/モノ/言葉と関わりながら生きていることを再認識させるという仕事です。
「新住民」たちによるこの仕事、それをする姿は、どんな風にして子どもたちの遊びの中に浸透していくのか。子どもたちがマネをし始めて、ズレていって、思いもよらないアクションを起こすかもしれません。その浸透/伝播していく様もメモやスケッチになっていくこの活動。はたしてどんな出来事が描かれるのでしょう。ワクワクします。
見所その2: 目を背ける「べき」事柄と、どう向き合うのか!?
児童館での出来事を「かたどる」ということは、その場と人を「観察する」ということです。「観察する」ということは、普段目をそむけているものも「見えてしまう」ということです。
児童館で子どもが遊んでいる・・・というと、健やかにドッジボールや将棋やカードゲームをしている情景を思い浮かべるかもしれません。しかしそこには、子ども同士の摩擦や軋轢、そして僕たち大人との認識あるいは感覚のズレがあります。その問題と「新住民」はどう向き合うのか。例えば、いじめや排除の現場に遭遇したとき、人のふるまいに何とも言えない違和感を感じたとき、僕たちはその現場や違和感から目を背ける癖がついています。しかし、「新住民」たちはどうするのか。
問題の場面を描けば、そこに描かれた人やその友達・家族を傷つけるかもしれない。しかし、問題の場面から目を背けることは、何も創造的でない。目を背けることで保たれている虚構の平和を崩すことに、ひょっとしたらなるかも知れない。でもその先を見てみたいという好奇心。ゾクゾクします。
見所その3: 新住民史、その物語を誰がどう引き受けるのか!?
この活動は、最終的には「児童館の新住民史」という一冊の物語になります。それまでは、毎週フリーペーパーを発行し地域に配布します。「読み手」がいて初めて成り立つものですが、誰がこの「読み手」を引き受けるか。新住民たち自身でしょうか。子どもたちでしょうか。児童館の職員さんでしょうか。あるいはほとんど関係のない(ように見える)町の人たちでしょうか。
児童館で生まれた物語を、町の人たちが「読み手」として引き受ける。そうなれば、子どもたちや児童館、そして新住民たちが町のものになった、と言えるでしょう。はたしてそんなハッピーエンドを迎えることができるのでしょうか?無関心社会の様相をあぶり出すことにもなりかねない。ハラハラします。
とっても長くなってしまいました。ここまでで1600字。
兎に角、この活動の中に描かれる物語がどのような展開を見せるかは、全く予測不能です。しかしそこには、見落とされがちな事柄と向き合う新住民たちの「つくり手」としての必死なアクションと、それを見た子どもたちの「遊び手」としての自由ななリ・アクションと、さらにはまだ誰だかわからない「読み手」の批評的なリ・アクションが見えてくることでしょう。
2009年4月 「児童館の新住民史」(制作:北澤潤) 発行。
乞うご期待。

長い間、同じ人達によっておなじことが行われると、そこにいる人たちには、自分たちのルーティーンワークを見直そうっていう気持ちにはなりにくいと思います。
そこに、よそ者、新住民が入ると、ただそこにいるだけで、色んなものが見直されていくものだと思います。
民主党に政権交代し、一番の変化はその部分だと思います。
新住民により、児童館が、子供たちが、街がどんな風に今まで見えなかったものがみえてくるか、今まで感じなかったどんなことを感じるか、
そして街じたいがどんな風に変わっていくか、
期待しています。